CERATIZIT(セラティジット)は、従業員数7000人超、製造拠点25か所を超えるグローバル企業です。素材技術の先駆者として研究開発に継続的に取り組んだ結果、1000件以上の特許を有し、優れた硬金属を工作機械向けに提供し、日本が得意とする自動車、航空宇宙産業にも貢献しています。日本で身近な「ある製品」にも同社の素材が使われています。

今回は、同社の日本子会社である株式会社 CERATIZIT Japan代表取締役社長の馬場雅弘さんにお話を伺いました。

(聞き手:松野百合子)

株式会社 CERATIZIT Japan 代表取締役社長  馬場雅弘さん

1960年 福岡市出身

1982年 静岡大学法経短期大学部卒業

1984年 静岡の機械メーカーでCERAMETAL社の日本総代理店責任者として活動開始1998年 CERAMETAL Japan設立、代表取締役副社長

2014年から現職

 

“当グループグローバルで2013年以来の最高の受注額となるそうです”

 

ー 本日はお忙しい中、わざわざ静岡本社から東京の大使館までご足労いただきありがとうございました。静岡は気候もよくお魚も美味しい良いところですね。

静岡は人の出入りが少なく持ち家率が高いため、テストマーケティングの信憑性が高い場所として有名です。厳しい意見が多いので、静岡で売れれば必ず全国で売れると言われるそうです。

ー では、静岡を経由して日本に入ってくるCeratizitさんはお墨付きですね(笑)。ところで、新型コロナウィルス感染拡大の御社ビジネスへの影響は現在どのようなものでしょうか?

大企業の3月末決算を見ると、昨年4月からしばらく続いた厳しい状況がようやく回復したところが多いようですね。低調だった設備投資が回復し、昨年は苦境を強いられた我社も本年5月は前年比170%の受注増です。これは全世界的傾向のようで、当グループグローバルで2013年以来の最高の受注額となるそうです。

一方、パンデミックに対応するため、実施を余儀なくされた事業再編やリストラなどにより、急激な工場の人材不足が発生してしまい、現在は受注に見合う生産力の確保で苦労しています。

ー それだけ大きな市場の変化に対応するのは至難の業ですね。工場の設備投資が堅調なのは今後の経済成長に向けてとても心強いです。

(*写真撮影のためマスクを外しています)

 

“超硬合金とは、名前の通り大変硬い特殊な金属です”

 

ー 今回、Ceratizitさんをご紹介するにあたり、まずは、御社が活躍する超硬合金の分野について伺います。私を含めなじみのない方も多いかと思いますが、そもそも超硬合金とはどのようなものですか。私などは超合金といえばロボットアニメを思い出しますが・・・。

日本のアニメで超合金と言うととても硬くて強いイメージがありますね。超硬合金とは、名前のとおり大変硬い特殊な金属です。分かりやすく言いますと、世界で一番硬いものがダイヤモンドで、2番目がセラミック、その次に硬いのが超硬合金なんです。また超硬合金は大変重たく、比重が約15もあるので、水の15倍も重たいことになります。

作り方は、粉末冶金法(ふんまつやきんほう)と言われる特殊な技術を用い、ミクロンサイズ(1000分の1ミリ)にまで細かくした金属の粉を押し固め、それを精密機械で色々な形に加工します。その後コンピューター制御の真空焼結炉と言う、焼き窯の中に入れて、約1500℃の高温で二日間ほど焼き上げます。簡単に言えば、焼き物と同じように作るのです。原料の粉は、主にタングステンとつなぎの役目になるコバルトです。この粉を押し固めたときは、ちょうどチョークほどの硬さなので、工作機械や金型を使って必要な形に加工することが容易ですが、一旦焼きあがった超硬合金は大変硬くなり、普通の刃物では全く刃が立たないので、ダイヤモンド砥石や放電加工機と言われる特殊機械を使って仕上げ加工を行わなければなりません。さらに厄介なのは、焼結したあとは、大きさが約30%も小さくなってしまうため、焼結後の寸法と形状を、どれだけ正しく維持できるかが、メーカーの評価を左右する重要なポイントになるわけです。これには長年の経験とミクロン単位の品質管理が必要です。

ー そこに各メーカーのノウハウがあるんですね。おそらく各社の得意分野もこうした経験値に関連しているのでは。

そうですね。材料の配合などのデータ通りに作っても、それだけでは全く同じものはできません。

ー 超硬合金はいつ頃から作られているのでしょうか?

超硬合金の歴史は、遡ること1923年(大正12年)にドイツのOSRAM社(オスラム)と言う照明機械メーカーにより発明され、その後、同じくドイツのWIDIA社(ウィディア)が1927年(昭和2年)に商品として発表しました。一方日本では、1928年ころ国内メーカーにより発表されたと聞いております。

ー 照明機器メーカーですか。

エジソンが竹のフィラメントを使って白熱電球を生み出した話は有名ですが、このフィラメントの改良に取り組んでいる際に超硬合金の材料となるタングステンが使われるようになりました。

CERATIZIT社のルクセンブルクでの歴史は、創業者のニコラス・ランナース博士が、白熱電球に用いるタングステン・フィラメントを製造するため、CERAMETAL社(セラメタル)を設立した1931年に遡ります。一方、のちほど紹介する、オーストリアのPLANSEE社(プランゼー)は、それ以前の1929年には既に、超硬合金の量産を始めており、その後CERAMETAL社が超硬合金の製造を始めたのは、第二次世界大戦後のことです。

 

“プランゼー社の潤沢な財政資源を活用することで、

業界3番目を大きな目標に、新たなスタートを切ることになりました”

(*写真撮影のためマスクを外して頂いています)

ー プランゼー社のお話が出ました。モリブデン材料およびタングステン材料の専門企業であるプランゼーグループとは長期にわたるパートナーシップを築いていらっしゃいます。今日のCERATIZIT誕生も同社との合弁ですね。

オーストリアのプランゼー社とのつながりは古く、1948年にまでさかのぼります。前述のニコラス・ランナース博士は、超硬合金の製造を始めたいと考え、当時すでに量産化をしていたプランゼー社にコンタクトしました。この結果、両社にとって初めての提携体制が始まり、この関係は1962年までの14年間続くことになりました。しかしその後、経営方針の違いや、市場の中での両社の競合関係などが問題になり、結果的に提携を解消することになりました。

その後、長い時間が過ぎ、再び両社が歩み寄ることになったのは2002年のことです。両社は昔を思い出し、再び提携することで合意し、オーストリアのPLANSEE TIZIT社(プランゼー・ティジット)とルクセンブルクのCERAMETAL社(セラメタル)の社名を合わせて、CERATIZIT社(セラティジット)が誕生しました。当時の会社規模は、業界の中では20番目でしたが、その後飛躍的に成長を遂げ、今では業界5番目になることが出来ました。

ー 実り多い合弁だったわけですね。20年間で順位を15あげられています。

CERATIZITは今年、オーストリア工場創業100周年になります。創業者のポール・シュワルツコフ博士は、当時この革新的な材料を世界中に広めるべく、壮大な構想をスタートさせました。現在CERATIZIT社は、業界5番目の企業にまで成長し、工具用丸棒素材や、木工用、石材用チップなどは、長年にわたり世界のトップシェア維持しております。

今年3月に、オーストリアのプランゼー社が筆頭株主になりましたが、この背景には、残念ながら、ルクセンブルク側に後継者がいなかったことが大きな理由です。しかしこれにより、今後はプランゼー社の潤沢な財政資源を活用することで、業界3番目を大きな目標に、新たなスタートを切ることになりましたので、全社員は今、目をかがやせて日々の業務に取り組んでいます。

“消えるボールペンの小さなペン先に採用されております。

また世界中の日本円紙幣は、当社の超硬合金を搭載した刃物で断裁されています”

ー ところで、超硬合金は実際にどのように使われていますか。

超硬合金の代表的な用途ですが、一番大きな需要は、金属を加工するための工作機械に取り付ける、様々な切削工具の刃先になるインサートチップと呼ばれるものと、同じ用途に使われる、ドリルやエンドミルと呼ばれる工具です。また家具や住宅建材を作るための木材加工用刃物、コンクリートに穴をあけるために使うドリルの刃先など、私たちが日常生活で使う、多くの製品を作るために必要な、工具の刃先に使われています。またこれらとは違う、ちょっと変わった用途ですが、当社の製品は、その品質を評価され、近年では世界中で愛用されている、国内の著名メーカー様が発明された、消えるボールペンの小さなペン先に採用されております。また世界中の日本円紙幣は、当社の超硬合金を搭載した刃物で断裁されていますので、これを機に、当社の存在を身近に感じて頂ければ、この上ない幸せでございます。

ー 消えるボールペンは私も海外へ行く際に知人のお子さんへのお土産としてよく持参し、とても喜ばれます。なぜ御社の製品が採用されたのでしょうか。

先方の企業秘密なので明かしてはもらえませんが、消えるボールペンに使われる特殊なインクと当社の材質の相性や耐久性が関係していると思います。

ー 日本円紙幣の裁断にも活躍され、実は我々日本人の生活にCERATIZITさんの製品が関わっていると思うと、とても親しみが湧きました。

御社は世界中に非常に多くの特許をお持ちのイノベーション志向の企業だと伺っています。具体的にはどのように研究開発に注力されているのでしょうか。

現在、約1,000以上の国際特許及び実用新案を持っていますが、これはライバルメーカー様同様に、自社の開発商品をコピー品などから守るために取得したものなのですが、実際には、これらの特許があるために、より自由な商品開発の道が狭くなってしまうという現実が付きまといます。当社には現在、研究開発部門に200人以上のスタッフを有し、新製品の開発だけでなく、硬質材料分野の基礎研究も行っています。彼らは、世界中の研究機関と協力し、不可能だと思われてきたものを可能にし、技術と品質の壁を打ち破る努力を続けています。また同時に、世界中のお客様の声を聞きながら、直接的なサポートを実行しています。当社は基本的に、競争力強化には、特許だけでなく、毎日の絶え間ない努力が最も大切だと考えております。

ー 日本での事業展開で最もご苦労が多いのはどんな点ですか?

これまでの説明でお分かり頂けたように、日本は欧州同様に、大変長い歴史を持つ、超硬合金の市場であり、その規模も大変大きいのです。このことは、世界でも大変評価が高い、日本製の工作機械や切削工具のメーカー様が多く活躍されていることでもお分かりいただけると思います。そんな市場環境の中、1998年に当時のCERAMETAL社の日本法人を立ち上げて、今まで事業を続けておりますが、この世に超硬合金が登場した、1920年代から活躍される日本のメーカー様には、同じ時間を共に過ごしてこられた、お得意様がおられるわけです。我々の仕事は、そのお客様方に当社の製品を紹介し、買っていただく努力をすることなのですが、これは簡単なことではなく、例え当社の製品の方が、多少優れている場合でも、お客様はこれまで長い間、様々な局面で、国内メーカー様から多大な支援を受けておられますので、簡単に当社の製品に切り替えることは出来ません。

実は私、1998年に日本法人を立ち上げる14年前の1984年から、CERAMETAL社代理店の商品責任者として営業活動をしておりましたので、このことの難しさを痛感してきました。気が付けば37年が過ぎましたが、未だに国内メーカー様の信頼度の高さには頭が下がりますし、例えこの歴史差を埋めることが不可能だとしても、我々自身の人間的な信頼度を以って、対等な立場で事業活動をすることが最大の目標です。

ー 2018年に御社Ceratizit Japanの創立20周年を記念したレプションを当大使館で開催した時は、ルクセンブルク本社の役員の方や日本のお客様など大勢がご参加されましたが、馬場さんはじめ御社の皆さまはとても良い関係を築いていらっしゃる印象でした。

(2018年のCERATIZIT Japan 20周年イベントにて)

お仕事で関わる以前にルクセンブルクとのご縁はありましたか。

ー ルクセンブルクとの出会いは1984年にさかのぼります。当時は代理店として営業活動をしており、その後、現地法人を立ち上げたいという、CERAMETAL社の要望にこたえる形で、代理店を辞めて会社を設立した次第です。設立当時は、私と家内の二人きりで、私がお客様を訪問し営業を行い、家内が事務所で入出荷と経理事務を行っていましたが、当時はお客様からの注文も少なく、毎日が不安の連続でした。それから20年以上が過ぎ、途中家内は専業主婦に戻りましたが、いまでは従業員15名、年商は設立当時の10倍にまで大きくすることが出来ました。でも日本市場は大きいので、もっと事業が拡大できるように、社員全員で盛り上げていきたいと考えています。

ー 我々も応援しています。

(1989年)

“欧州各国だけでなく、アフリカや東南アジアなどからも、社員が集まり、

それぞれの特技を生かした仕事をしています”

 

ー ルクセンブルク本社をご訪問されたと思いますが、国の印象はいかがでしたか?

ご存知の通り、ルクセンブルクは多くの方々が、隣国のドイツ、フランス、ベルギーなどから毎日通勤で来られ、子供たちが通う幼稚園や小学校では、欧州各国の子供たちが集い、それぞれの国の言葉で話をするので、自然に数か国の言葉をしゃべるようになります。島国の日本からすれば、とても羨ましい環境です。CERATIZITもそれに似たような環境で、欧州各国だけでなく、アフリカや東南アジアなどからも、社員が集まり、それぞれの特技を生かした仕事をしています。そんな中、当時、彼らにとって日本人の私は珍しかったようで、初めてルクセンブルクを訪問した1989年には、ルクセンブルクで一番古い日本食レストランに連れていかれ、お店の味が本物かどうか?と聞かれて大変困りました。その時食べたのはスキヤキでしたが、とても美味しくて、未だにその光景が目に焼き付いたままです。

これまで何十回とルクセンブルクを訪問しましたが、困ることは全くなく、毎回の訪問で楽しみなのは、いつも食事が大変美味しく、特産の白ワインと一緒に、テラスで過ごす時間は、日本では味わえない至福のひと時です。これまで出会ったルクセンブルクの方々は、とても親切で紳士的です。中でも代理店時代から、長い間支えて頂き、日本法人を立ち上げるきっかけになった方とは、その方が引退した今でも交流があり、私の人生の師と言える存在です。長くなりましたが、私にとってルクセンブルクは、心の母国のような存在です。

ー ルクセンブルクでは馬場さんにお世話になった方が多くいらっしゃると思います。心の母国というお言葉はルクセンブルクの人たちにとっては非常にありがたいのではないでしょうか。

今日は、貴重なお時間を頂き大変興味深いお話を聞かせて頂きありがとうございました。

今後のますますのご発展をお祈りいたします。

(*写真撮影のためマスクを外しています)

 

 

 

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